仏像名

 じぞうぼさつざぞう

如意寺
制作年代

重文
鎌倉時代

地蔵菩薩坐像

様 式

俗称又
は愛称

製作材質

木造.彩色.玉眼 切金文様、

樹 種

像 高

53cm

製作者

快慶作

安置場所

開扉期間

解 説

丹後の快慶作仏像
 宮津市の鎌倉時代の美術は、由良の如意寺の快慶作地蔵菩薩坐像に始まる。快慶は鎌倉時代の彫刻界に新風を巻き起こした慶派所属の仏師で、運慶とは兄弟弟子となる。治承四年(1180)平重衡のために焼き討ちされた東大寺の勧進聖となった俊乗房重源(11211206)の弟子となり、安阿弥陀仏の号を師からもらったので、快慶の制作した仏像の作風を安阿弥様といい、その作風は後世の仏像制作にも、大きな影響を及ぼした。
 丹後にはこれまで三躯の快慶の作品が確認されていた。舞鶴市金剛院の執金剛神立像と深沙大将立像、同市松尾寺の阿弥陀如来坐像である。執金剛神像と深沙大将像は、慶派仏師が目指していた天平彫刻への復古という方針のもとに制作された。治承四年の戦火で南都の東大寺と興福寺の天平時代の仏像がほとんど焼失してしまったから、南都を根拠地にして、常日頃天平彫刻親しんできた慶派仏師は、まず天平復古を第一目標とした。第二目標としたのは、新しく成立した武家政権にふさわしい写実的で力強い作風で、平安時代後期の仏像に流行した繊細で優美な定朝様に代わる新様式であった。これを実現するため、これまで彫眼であった仏像の目に、水晶製の玉眼が嵌入され、また、宋様式の生々しい表現法が取り入れられた。
 舞鶴市松尾寺の阿弥陀像は第二目標を強調して制作された仏像である。同金剛院の両像とともに、快慶の無位時代の作品で、いずれも「巧匠アン阿弥陀仏」の墨書銘があり、初期の溌刺たる力強さを持つ快慶の作風をあらわしている。

快慶作仏像の新発見
 如意寺の地蔵菩薩坐像は、火災にあったことがあり、その修理によって、表面が分厚い彩色で覆われてしまったため、膝裏内刳部に「巧匠アン阿弥陀仏」の墨書があることが、以前から確認されていたにもかかわらず、快慶の作品と決定できずに過ごしてきた。昭和六十二年(1987)、この像の解体修理が実施され、三道内部と左目の玉眼押さえからも、新らたな快慶の墨書が発見された。像容もこの修理によって当初の姿が明らかになり、快慶初期の力強くも生々しい姿があらわれることになった。
 この地蔵像に残る焼痕は、山椒大夫に捕らわれた安寿と厨子王の姉弟が、脱出しょうとして見つかり、太夫から焼け火箸を当てられたのを、この地蔵が代わって受けたのだという伝説を生んだ。寺伝では、何時のころからか如意寺の本山である舞鶴市の金剛院に預けてあったのを、明治時代に取り戻したと伝えている。
 宮津市と舞鶴市に残る四躯の快慶造立像は、いずれも快慶の初期の無位時代の作品で、金剛院像は天平復古、如意寺像と松尾寺像は写実と力強さ、宋風の生々しさを顕著にあらわしている。これらの仏像を、快慶が現地に来て作ったのか、都で作ってこちらに持ってきたのか、という問題は、いずれも大きな仏像ではなく、内繰りも発達していて軽いので、後者の方が可能性があるように思われる。玉眼入りの一木割矧ぎ像を作る場合、設備の整った都の仏所で作る方が、仏師にとっては都合がよかったであろう。
 制作地問題ところが、同じ丹波でも、兵庫県氷上郡山南町の石嵩寺の金剛力士像二躯になると、両像ともに仁治三年(1242)に慶派の肥後別当定慶が造立した作品だが、像高が阿形で368cm、吽形で371cmもある。これほど大きくなると、大仏師が小仏師を大勢引き連れて、現地に行かなければ、制作はできない。もっとも、寄木造だから、まず都でいったん完成し、彩色は未完のままで解体して、丹波へ運搬して組み立てたと考えた方がよいかもしれない。こうして現地に運んでも、組み立てに当たっての諸注意や修正、表面の彩色などは、大仏師が指揮をとってやらなければならない。このような大きな仏像ではなくても、寄木造像の場合は、解体して運び、現地で組み立てて彩色し、完成した方が、搬送中の損傷も少なく、安全だったであろう。解体運搬の場合は、当然、仏師が現地に赴いて、組立、彩色の仕上げをおこなったものと思われる。
「金剛院の文化財(快慶仏)」より 2013年

私 の 想 い

 平成25年7月に第六十九回「仏像観て歩き」として、若狭小浜市の寺々の訪問を終えて、今回の三つ目の目的である丹後の快慶作品を訪ねる旅となります。
 ようやく、的外れのライバル対決の囚縛から解き放たれて、本当の同世代、同門、同尊、同姿の真剣勝負です。両者の師匠である康慶の嫡子と赤の他人の子供という格差はあるものの、快慶には、重源上人という強力な指導者、支援者が居る。物心両面での支援が、後々まで続くのである。一方、運慶は、一時は親元を離れ、東国の新しい造仏支援者を求めて、新規開拓の修行に出るのである。この東国進出によって、静岡・願成就院や神奈川・浄楽寺の仏像群が生まれたのである。
 この本像と京都・六波羅蜜寺像を幾つかの箇所で比較してみよう。

この快慶作の如意寺像は

1)面相
 快慶の特徴である四角いお顔をしている。

2)眼
 半眼の目だが、彫眼では無く、玉眼で少し充血しているのだろうか。

3)頭
 剃髪と素肌との境が、薄く段差が少ない。

4)耳
 大きな耳朶をした出世は間違いなしの持ち主である。

5)右手
 右手は脇を締め、肘をL字に曲げ、肩幅のままで前に出し拳を軽く錫杖を握り持つ。
 前回の坐像と立像の対決では、物を云っている六波羅蜜寺像に軍配を挙げた。

6)左手
 左手も脇を締め、肘をL字に曲げ、肩幅のままで前に出し手の平を開いて上に向ける。
 中指と薬指を直角に曲げ、宝珠が落ちないようにしている。

7)衣の襟
 通肩に着た衣の右襟が、三尺阿弥陀像で快慶が見せた後期の作と同じI(アイ)形で首から
 真直ぐに下に落ち、たわんで上に収めている。この事を考えて、して見ると、前期と後期 の境目の後期か。

8)脚
 結跏趺坐を組上げていない。そのまま組上げれば、左足前の降摩座だが、左足を組上げず に前に投げ出し足首が見える。

運慶の六波羅蜜寺像は

1)面相
 盆のような丸顔である。

2)眼
 彫眼のように観得るが、玉眼である。

3)頭
 剃髪と素肌の段差があり、区別が着く。

4)耳
 耳朶の下の方が輪になり、更にその先にイアリングも着けい居る。

5)右手
 物を言う右手として、比べ様がないので軍配を挙げた。握るでもない握りの指に軍配。

6)左手
 左手は脇を締め、肘をL字に曲げ前に出し手の平を開き、親指以外の四指を立てて宝珠を
 載せる。というよりも、手の平全体で宝珠を包み込む。

7)ネックレスを着ける。洒落た青年僧。
 イヤリングやネックレスを着ける洒落た青年地蔵菩薩像である。

8)脚
 脚は組上げて衣で隠されて、右組なのか左組みなのか判らない。
最後に、折角なので、ここで二人の師匠である康慶の地蔵菩薩坐像を紹介します。

康慶作の静岡・瑞林寺像は、

1)面相
 丸顔のお地蔵様。

2)眼
 目は運慶、快慶よりもやや開いている。玉眼である。

3)頭
 剃髪と素肌の段差もそこそこある。

4)耳
 耳の造りは、運慶像に近く、輪になった耳朶である。

5)右手
 右手は運慶に似ているが、手首が少し下になった感じか。握りも自然な感じだ。

6)左手
 左手の手の平は完全に開いてはいないが、中指が少し立つ感じである。その上に宝珠が載 る。

7)衣の襟
  通肩に着た衣の襟は、U字形に収まり、極々、当たり前で変化は求めない。

8)脚
 結跏趺坐を組上げていない。組上げれば、吉祥座の右脚前の組み方である。快慶と逆で右 脚を前に投げ出している。右足先が観得ている。

流石にお師匠さんである。いろいろな処で弟子に受継がれている事を感じます。
 比較させて頂いた康慶作の瑞林寺像、運慶作の六波羅密寺像、快慶作の如意寺像の三像に合掌。有難う御座いました。

地蔵菩薩坐像画像一覧その1
地蔵菩薩坐像画像一覧その2
地蔵菩薩坐像画像一覧その3
地蔵菩薩坐像
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