日本に密教をもたらした傑僧
讃岐国(香川県)に佐伯氏の子どもとして生まれた。母親の兄に桓武天皇の皇子の侍講を務めた阿刀大足がおり、彼から中国の古典についての教育を受けた。その後、上京して十八歳の頃に大学に入学したが、一年ほどで退学してしまう。その頃に、一人の沙門から虚空蔵求聞持法という記憶力強化の呪法を学び、仏教への傾倒を強めていった。その後、私度僧(政府の許可を得ずに私的に出家した僧)として、畿内や四国で山林修行を行い、二十四歳の時に「聾瞽指帰」(後に「三教指帰」と改題。四八頁)を著し、その中で仏教が儒教や道教よりも勝れていることを述べ、出家者として生きる決意を表明した。その後、三十一歳の時、東大寺で得度するまでの七年間は記録が残されていないが、山林修行を続ける一方で、南都の寺院で教学を学び、空海に入唐を決意させる「大日経」に出会ったと思われる。
留学僧として入唐、密教の後継者に
二十数年振りに遣唐使が派遣されることを聞いた空海は、延暦二十二年(803)に東大寺で受戒し正式な官僧となり、留学僧の資格を得、翌年に唐へ旅立った。遣唐使船は途中で嵐に遭いバラバラとなったものの、なんとか長安に着いた空海は、青龍寺の恵果(746〜805)に出逢う。恵果は、不空の弟子で胎蔵界・金剛界の両方の正系の密教を伝えるただ一人の人物であり、すでに老境の域に達していた。その恵果のもとで三ヶ月という短期間に胎蔵界・金剛界・伝法阿闍梨の灌頂を受け、他の中国人の弟子を飛び越えて密教の後継者に選ばれた。空海が伝法灌頂を受けた四ヶ月後に恵果は亡くなり、ちょうど日本から来た使節団に乗じて空海は帰国することを決意する。大同元年(806)、九州の博多に着いた空海は、二年という短期間の留学のために上京の許可が下りず、三年の間九州に滞在する。その後、上京を許された空海は、山城国(京都府)の高雄山寺(後の神護寺)に入り、最澄との交流が始まった。弘仁元年(810)の薬子の乱の後に、鎮護国家の修法を行うことを嵯峨天皇に申し出たことが縁となり、文学や書道に造詣の深い天皇との親密度も増していった。
嵯峨天皇の寵愛を受けて、空海は都に近い山城国長岡の乙訓寺の別当に任じられる。弘仁三年(812)、高雄山寺で広く結縁灌頂を行ったが、それを受ける人物の中には最澄の姿もあった。当時、日本仏教界の中心にいた最澄が空海より灌頂を受けたことで、空海の名は一躍脚光を浴びることになる。しかし、最澄との良好な関係は長くは続かず、最澄の「理趣釈経」(理趣経の解説本)の借用を空海が断り、最澄の寵愛する弟子の泰範が空海の弟子に寝返った事件をきっかけに、翌年二人は離別した。
高野山の開創、宮中行事にも取り入れられる密教
世間の評価を受けた空海は、次に真言宗の創立に向けた組織作りに向けて活動した。高雄山寺に三網という役職を設けて寺院の整備に努め、「空海の十大弟子」と呼ばれる人びとが育っていった。弘仁七年(816)には、紀伊国(和歌山県)高野山に道場建設を天皇に願い出て許可される。だが奥深い山中にある高野での作業は遅々として進まず、空海在世時にはわずかな建物が建っただけで終わってしまった。しかし一方、弘仁十三年(822)、東大寺に灌頂道場をつくる勅命が下され、真言院を建立し奈良にも拠点を設けることとなった。翌年には、東寺(後の教王護国寺)が嵯峨天皇から与えられ、京における人びとの教化の拠点として密教の根本道場の造営に着手する。その後、天長九年(832)に高野山に向かうまで、密教の修法を執り行い、各寺の別当を任じられるなど活躍を続けた。承和元年(834)には宮中で国家安穏・五穀豊穣を祈願する。「後七日御修法」を勤め、密教が宮中行事に取り入れられることになった。死後を悟った空海は、翌年の承和二年(835)に高野山で禅定に入り、六十二歳で生涯を閉じた。後年の延喜二十一年(921)には醍醐天皇より、広く知られる「弘法大師」の諡号を授けられる。
空海の活動は、文学や社会福祉と多方面に及び、書道の名手として在世時から高い評価を受け、日本初の字典をつくってもいる。また社会福祉としては、庶民のための教育機関である綜芸種智院の創設などがある。
「名僧でたどる日本の仏教」平凡社 2011年より
|